ヤマアラシ

 『山嵐みたいな頭』の話をしていて、山嵐をその場にいた数人が知らないのには驚いた。
 アニメで時々出てくるのに、動物園でも見たことがないという。
 
 ちなみに、『坊ちゃん』に出てくる山嵐は動物の山嵐のことではない。『柔道一直線』は知っていても、山嵐を知らないおばさんたちだった。

褌の似合う政治家はいない

 「自民党に投票したことなんか滅多にないよ」と言ったら驚かれてしまった。今回は他にいなかったので民主の候補と比例区には元県知事が代表の党に入れた。珍しく自分の票が死に票にはならなかった。2票とも名前を書いた候補者が当選したなんて画期的な出来事だ。
 元県知事の人となりは兎も角、官僚と戦うには地方公務員との戦いに敗れたこの人しかいないし、他には誰もキャリアとの負け戦に褌一丁で乗り込んで華々しく討ち死にしようなんて思ってくれない。
 しかし、所詮政治家は当選してなんぼだし、実権をふるうには政権がなくては何もできない。政治は政策を競う場だけではなく、権力の争奪戦がメインであり、勝者にのみすべてが与えられる。
 だから、一個人には何もできないとわかっているけど、チマチマと官僚のアラでも掘り出してくれたらと淡い期待をかけている。

崩れ去るものはどっち?

 その昔、中核派シンパの友人に目指そうとしている理想の社会について質問してみた。明確な答えは返ってこなかった。 
 その内、よど号事件があって北朝鮮が理想の国家らしく見えていたらしいが、所詮共産主義の名を借りた独裁国家でしかなく彼らには失望するしかなかった。
 
 国家権力は時に無謀な暴力をふるい悪になることが多い。共に助け合うことを主眼としたインカ帝国は西洋人から見れば異様な国家で国家らしくなかったのかもしれない。
 国家=権力の図式は健在である。
 
 体制派はこの権力に癒着して富を増やそうとする。これはそのまま格差に繋がるだろう。
 
 反体制派は体制派に反対するだけではない。反体制派は体制を破壊しようとする。それが新左翼だけでなく、社会党を初め日本の野党の目指したことだった。
 労働組合は体制に逆らうだけではなく、体制が機能しなくなることを目論む。だからこそ反体制派なのだ。
 反体制派とまで行かなくても、日産など労働組合の強い会社はほとんど傾いている。
 
 自治労社会保険庁で行ったサボタージュも彼らにしてみれば当たり前のことをしただけである。現在の混乱を考えると、彼らの目論見はまんまと成功してしまった。
 
 身内の中に実力行使をいとわないこれだけの反体制派を内部に抱え込んでいる日本という国家はたいしたものである。いかに政府が何もしてこなかったかと言うことの証であろう。
 
 冒頭に述べたように反体制派は体制を崩壊させるのが目的であり、自分たちで築き上げるべき社会を持ってはいない。彼らが彼らの理想の社会に誘導する目的で体制に反対を唱えていたわけではない。単にぶち壊したいだけであり、愉快犯と同じなのだ。
 
 「反対するだけなら誰にでもできる」は、確かに名言である。
 
 体制派ではない人でもそろそろそんな反体制派と決別すべきだろう。
 
 反体制派の人々のお題目はどんどん消えていき、今残っているのは第九条だけだ。九条の問題ほど反体制派の主張で幅広く受け継がれ、なお多くの人に支持されているものはないだろう。
 アンチ軍国主義が彼らに残された最後の旗印であり、すべての動きを右傾化に結びつけて批判し反対する。
 国民総背番号制を導入しようとすれば全体主義に繋がるからと反対する。
 
 本当にそうなのだろうか?
 我々国民は今もって日本が軍国主義化していくのを止められないほど馬鹿なのか?
 日本の政府の目標は戦前と変わらないのか?
 
 なぜ反体制派の人がもっとも保守的なのだろうか。そろそろ彼らの呪縛から解き放たれても良い時期のように思える。
 九条の問題も含めて単に反対するだけでなくどのようにすべきかを真摯に考えなければいけない。
 まだ反体制派であることは社保庁と同じような過ちを全体に許すことになる。
 
 
 
 しかし、全体的な論調がどんどん右傾化していることは事実だ。これも見過ごしてはいけない。確かに危険な兆しが潜んでいる。

ゲドはケドだった。

 ゲドを読む。とはスタジオジブリの映画『ゲド戦記』DVDの販促物で、販促物としては初めての文庫本という体裁だということで少し話題になり、DVDを買う気もレンタルする気もなく、レンタルする価値さえ見いだせない映画ではあったのだが、文庫本はもらってきた。
 
 読み始めて数ページ、『本当のクレオパトラは黒人でした。』という記述に愕然とし、その前後の出鱈目な記述にいっぺんに読む気をなくした。
 そもそもクレオパトラが最後の女王となった古代エジプトプトレマイオス朝アレクサンダー大王の将校だったプトレマイオスが征服したエジプトに興したヘレニズム王朝で、彼はマケドニア出身のれっきとしたギリシャ人だ。
 もちろん、大昔の人種構成と現在とは大きく違う。しかし、ヘレニズムの彫刻を見ても黒人らしい特徴はない。クレオパトラギリシャ人だったと言うべきである。
 
 ゲドを読む。の巻頭を飾るこの文章の筆者は、奴隷はすべて黒人で、しかもアフリカに住んでいるのはすべて黒人という誤解に誤解を自ら上塗りした間違った大前提を疑おうともしていない。アメリカなどの黒人奴隷は近代以降のことであり古代では戦争の敗者が奴隷にされていたし、エジプトは昔も今もアラブ系が主流だ。
 
 こんなミスプリに近い文章から始まるなんて、この販促の文庫本は映画の内容と同じなのか。

それは中国が?

 今までの所、今年は蚊やハエが例年の半分以下しか見ない。しかし、我が家の環境が急激に向上したとは考えられない。
 
 やはり異常気象か?
 
 それとも、中国が大量の毒素を日本に向けて垂れ流していてくれる御陰なのか?

はしかはしかる

 誰が悪いって、一番の責任はキャリアだろ。
 
 年金支給漏れ問題には自治労の意図的なサボタージュが絡んでいるという話もあるらしいが、公務員のずさんな仕事が原因。
 はしかはワクチンの必要性を以前から言われながら、現在の状況を予測できていない。彼らが医師会や薬剤メーカーのご機嫌を取るだけで国民の顔を見ていないことは歴然。
 いちいちあげていくと切りがないのだが、彼らはみんなみんなさぼっているとしか思えない。
 
 官僚、公務員、自分のためにしか働かないのならいらない。
 政治の責任もあるが、実務を担当する官僚に真の原因がある。そして、それらを統括するはずのキャリア、彼らはそれなりの義務を果たしていない。事なかれ主義ですべてに頬被り、他人に責任をなすりつけ知らぬ振り、そして、天下り先の退職金を貪欲に平気な顔で懐に入れている。
 
 年金にしてもはしかにしても担当者はちゃんと国民の前に出て責任の所在を明らかにせよ。今の事務次官なんて怪しい。わかっていて知らぬ振りをした張本人ではないのか?
 謝りもしない。
 
 そして、一番腹が立つのが、今の自民党の政治家のほとんどが官僚の出身と言うことだ。官僚による官僚のための官僚政治だ。さもなくば、何も知らないボンボン二世。
 彼らに真の政治はできない。もちろん、民主党も似たり寄ったり。
 
 前の首相は準公務員の郵便局長をいじめて政治改革だとのたもうた。本丸にはほとんど手がつけられていない。省庁の統廃合だけで掛け声は止んだ。相変わらず公務員は温々と生き続けている。
 
 公務員改革法案には是非、政治家への天下り禁止条項を加えるべきだ。でないと、永遠にボンクラの意のまま。

ポストはヤッパリ赤なのか

 逆説を思いついた。SFでは良く出てくる設定ではあるが、今更ながらに現実味を帯びてきているのに自分でも驚いた。社会環境がどんどん変化しているのだから当たり前のことが当たり前でなくなっても不思議ではない。当たり前のことを当たり前と頑固に執着するとそれが建前になってしまう。建前が大手をふるってまかり通る前に、日頃当たり前として検証を怠っている当たり前が長続きはしないこと、実は当たり前と信じ込んでいる当たり前のことはあり得ないことを再確認する必要があるだろう。
 
 思うに、核家族のような少人数の家庭環境は子供を育てる環境としてはふさわしくない。それは自立を早くから促す欧米的な子育て方であり、日本ではもともとが村社会が慈しむように子育てをしてきた。(と思いついたのだが、もしそうでなかったとしても前提が覆ることにはならない。)
 
 家庭環境として、日本人がまず思い浮かぶのはサザエさん的家族である。そして、子育て論議をする時ほとんどの人がどこの家もサザエさんちみたいであるとそれを大前提にして理想論をぶつ。曇り一つない幸福な家庭、欠点のない理想的な両親、心身共に健やかにまっすぐ育つ子供たち。あり得ない。
 私の家はサザエさんちではなかったし、近所にも該当はない。内部を覗けば覗くほど各家庭のそれぞれの問題が浮かび上がってくる。
 
 子育ては理想論ではない。
 赤子が生まれたばかりの若い両親。二人は今までに経験したことのない重大な局面に立たされている。毛のない猿のような泣いてばかりの赤ん坊を前に喜びとともに不安が頭をよぎる。子育てはマニュアル通りには行かない。常にその場その場で臨機応変の対応を迫られ、家庭は安らぎの場から実験場へと変身する。その実験に例え成功したとしてもその代償はない。だが、数少ないささやかな成功のために多くの取り返しのつかない失敗を繰り返している。
 
 子供に愛情を注ぎ込もうにも無知な母親のほとんどはその方法がわからない。母親が途方にくれている内に子供は愛情を知らないままに大人になってしまう。父親は汚れたおむつを両手に持ったまま仁王立ちしているばかりだ。過保護を愛情と勘違いしている母親は多い。今、子供を育てているのは母親ではなく任天堂なのに。
 子供は十分に慈しみもされなければ、さりとて自立の術を教えられてはいない。子供たちはほとんどが難民として漂流していくことになる。子供は押し売りされた愛情という名の呪縛から自力で抜け出さなくては真に解放されないのだが、果たしてどれ位の子供たちがそのことに気づき、更に自由を得られるのだろうか。
 
 結論を急ごう。
 ほとんどの両親は子育てをするには不的確的な要素が多すぎる。人間の子供の成長を任せるには余りにも心許ない。 
 だから、両親に子育てを任せるのは止めさせよう。早めにすっぱりとあきらめよう。子育てに関する卓上の理想、すべての妄想を捨て去るのだ。
 
 子供が国の宝ならば、子供は国が育てるのを基本とすべきなだ。イギリスにだってどこにだって前例はある。子供を国の管理する全寮制の施設で育てたって偏った大人になる確率はきっと現状より少ない。
 子供を核家族に閉じこめておくのは良くない。人間として本来持つべき社会性をまず優先すべきであり、国は愚母から子供を早急に取り上げるべきだ。
 各家庭が子育てに要する費用をすべて税金として支払えば決して不可能ではないだろう。
 
 誰でも気安く子供を産めて、少子化対策にもなる。逆に子供が減るようなら、能力に応じて精子卵子の提供を有償で求め、代理母制度を国が活用する。
 両親に金に余裕があれば私立のちょっと豪華な学園があったって良いし、ひょっとしたらそこからハリー・ポッターのような冒険心にとんだ生徒が誕生するかもしれない。
 もし、両親が自分たちの子供を自分たちで養育したいという希望を申請したらその段階で両親の的確性を判断すれば良い。
 
 赤ちゃんポストを基本にすれば、日本の未来は明るい。
 
 たぶん? だよね?