ポストはヤッパリ赤なのか

 逆説を思いついた。SFでは良く出てくる設定ではあるが、今更ながらに現実味を帯びてきているのに自分でも驚いた。社会環境がどんどん変化しているのだから当たり前のことが当たり前でなくなっても不思議ではない。当たり前のことを当たり前と頑固に執着するとそれが建前になってしまう。建前が大手をふるってまかり通る前に、日頃当たり前として検証を怠っている当たり前が長続きはしないこと、実は当たり前と信じ込んでいる当たり前のことはあり得ないことを再確認する必要があるだろう。
 
 思うに、核家族のような少人数の家庭環境は子供を育てる環境としてはふさわしくない。それは自立を早くから促す欧米的な子育て方であり、日本ではもともとが村社会が慈しむように子育てをしてきた。(と思いついたのだが、もしそうでなかったとしても前提が覆ることにはならない。)
 
 家庭環境として、日本人がまず思い浮かぶのはサザエさん的家族である。そして、子育て論議をする時ほとんどの人がどこの家もサザエさんちみたいであるとそれを大前提にして理想論をぶつ。曇り一つない幸福な家庭、欠点のない理想的な両親、心身共に健やかにまっすぐ育つ子供たち。あり得ない。
 私の家はサザエさんちではなかったし、近所にも該当はない。内部を覗けば覗くほど各家庭のそれぞれの問題が浮かび上がってくる。
 
 子育ては理想論ではない。
 赤子が生まれたばかりの若い両親。二人は今までに経験したことのない重大な局面に立たされている。毛のない猿のような泣いてばかりの赤ん坊を前に喜びとともに不安が頭をよぎる。子育てはマニュアル通りには行かない。常にその場その場で臨機応変の対応を迫られ、家庭は安らぎの場から実験場へと変身する。その実験に例え成功したとしてもその代償はない。だが、数少ないささやかな成功のために多くの取り返しのつかない失敗を繰り返している。
 
 子供に愛情を注ぎ込もうにも無知な母親のほとんどはその方法がわからない。母親が途方にくれている内に子供は愛情を知らないままに大人になってしまう。父親は汚れたおむつを両手に持ったまま仁王立ちしているばかりだ。過保護を愛情と勘違いしている母親は多い。今、子供を育てているのは母親ではなく任天堂なのに。
 子供は十分に慈しみもされなければ、さりとて自立の術を教えられてはいない。子供たちはほとんどが難民として漂流していくことになる。子供は押し売りされた愛情という名の呪縛から自力で抜け出さなくては真に解放されないのだが、果たしてどれ位の子供たちがそのことに気づき、更に自由を得られるのだろうか。
 
 結論を急ごう。
 ほとんどの両親は子育てをするには不的確的な要素が多すぎる。人間の子供の成長を任せるには余りにも心許ない。 
 だから、両親に子育てを任せるのは止めさせよう。早めにすっぱりとあきらめよう。子育てに関する卓上の理想、すべての妄想を捨て去るのだ。
 
 子供が国の宝ならば、子供は国が育てるのを基本とすべきなだ。イギリスにだってどこにだって前例はある。子供を国の管理する全寮制の施設で育てたって偏った大人になる確率はきっと現状より少ない。
 子供を核家族に閉じこめておくのは良くない。人間として本来持つべき社会性をまず優先すべきであり、国は愚母から子供を早急に取り上げるべきだ。
 各家庭が子育てに要する費用をすべて税金として支払えば決して不可能ではないだろう。
 
 誰でも気安く子供を産めて、少子化対策にもなる。逆に子供が減るようなら、能力に応じて精子卵子の提供を有償で求め、代理母制度を国が活用する。
 両親に金に余裕があれば私立のちょっと豪華な学園があったって良いし、ひょっとしたらそこからハリー・ポッターのような冒険心にとんだ生徒が誕生するかもしれない。
 もし、両親が自分たちの子供を自分たちで養育したいという希望を申請したらその段階で両親の的確性を判断すれば良い。
 
 赤ちゃんポストを基本にすれば、日本の未来は明るい。
 
 たぶん? だよね?